私の自己紹介と個人旅行に憧れる訳


千葉県千葉市に生まれる。


小学生時代は当時は相当田舎だった同県八千代市に。
かなり田舎だった市内を自転車で探検しまくる。
今、思うとかなり好奇心旺盛な少年だったと思う。


中学生から現在までは先祖代々の地、千葉県船橋市の住民となる。
船橋市はかなり都会になっており、探検はやらなくなるが変わりに両親に買ってもらった
PC-8801で毎晩深夜まで遊ぶ。よく落ちこぼれなかったなあ。ほんと。


高等学校に進学し地学の授業が大変面白く、大学ではこれを勉強しようと思う。
地学科に進学希望などかなり珍しいが同じクラスに3〜4人いたと思う。
やっぱり地球に大変興味があった。特に火山・岩石・鉱物・古生物。
地球を探求することにすごく興味があった。それは今も同じ。


念願かなって理学部地学科に進学する。
そこで待ち受けていた授業は・・・。
先生が黒板に次のようなものをがんがんしゃべりながら書きなぐる。
○見たこともない英単語のスペル
○見たこともない数学・物理記号
○見たこともない化学式
・・・。

こんな状態だったので入学前に興味のあったものは単位をとるので精一杯になる。

そんな中、あんまり数学・物理を使わない面白い授業があった。
それが自然地理学であった。

地理学って何?。と質問されても答えるのが難しいが地域の自然・文化・社会現象などを探求する学問です。
大学でやる地理と言うものは「暗記力」を試すものではありません。

それから授業で人工衛星画像を利用して地表面の自然現象を把握できることを知って卒業研究ではこれをやることにする。

こういった地理学の面白さにはまり、ためらうことなく大学院に進学。

大学院に進学すると人工衛星画像を用いた対象を海外に求めた方が良い研究が出来ると
恩師から言われ、「モンゴル」を対象としている研究室を紹介されそこの居候になる。

そして修士課程1年生の夏、モンゴルへ海外調査の機会があり、参加することが出来た。

当時、成田からウランバートルへの直行便はなく、(今はわかりません。)
北京を経由してゆく事になった。
北京まで行ったら北京での同日乗り継ぎが出来ずに北京で1日過ごすことになります。





海外初渡航先はモンゴルですが、初めて足を踏み入れたのは中国となります。

はじめての国際線の飛行機。わくわくしながら成田空港へ。

当時の私は成田空港には少しでも早く到着した方が良いことなど知らずに遅く到着してしまった。
そのころは、座席指定などもなく、先生方同士、一緒に座ることが出来ずにしかられてしまった。
今、考えてみると当たり前だったかもしれない。

そして、飛行機は離陸。
飛行機は航空会社名は忘れてしまったが日系の航空会社で客は日本人ばかり。
恩師は隣でワインで上機嫌である。私も機内食に舌鼓をうつ。

飛行機の中はまだ日本であった。北京に到着し飛行機を降りるまでは日本が続いていた。

飛行機が北京に到着し、飛行機を降りると
私が今までの人生で見たこともない、経験したこともない世界が広がっている。

イミグレーションを何とか通過し、タクシーに乗り込む。
恩師に天安門を見たいと言うと笑いながら「運転手にそう言え。」という。

そこで私は紙を取り出し「通天安門」と書く。

そうすると運転手は頷き、タクシーは市街を目指す。

それから目に入るもの目に入るものみんな刺激的で私のこころの中は「わくわく」でいっぱであったことを覚えています。

それから翌日、ウランバートルへ旅立ち、飛行機のタラップを降りたら
目に羊が入って「すごいところ来てしまった。」と呟いたことを覚えています。

それから帰国までの間、目にするもの目にするもの今までの人生にはなかったもので
世界に出ると言うのはこんなにも面白いことなのか!!
と実感したのでした。

そしてつくづく思うのは旅行代理店のツアーのようにそこに暮らす人々を見ずに
観光名所だけを見て周る旅はつまらなく思い、そこの土地の風俗に触れるような旅をするには
やっぱり個人旅行だという結論に至りました。


そして、就職・・・。

本当は学者になるか自分の専門を活かした職業につきたいと考えていたはずが・・・。
当時、私も何を考えたのかわからないが企業ブランドだけを考えて就職する。

こうなると結果は自明で
最初の職場はすぐに体調を壊し退職し、
自分の専門を活かせると信じて再就職した職場は気づいてみればおかしな事業で
東京国税局査察部から査察があって倒産し、
気がついてみれば人間関係最悪の職場で全く畑違いの仕事をしている・・・。
もう「ギブアップ」寸前。

そんな日常から離れるために個人旅行を繰り返し、国内外を問わずに
その土地、その土地の風土や風俗に触れながらこころを癒しているのであります。




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